Last modified: January 20, 2020

小澤徹 (おざわ とおる)

X. 抜き書き

    興味深い文を集めてみました。


  1. « La filosofia è scritta in questo grandissimo libro che continuamente
    ci sta aperto innanzi a gli occhi (io dico l'universo),
    ma non si può intendere se prima non s'impara a intender la lingua,
    e conoscer i caratteri, ne' quali è scritto.
    Egli è scritto in lingua matematica, e i caratteri son triangoli,
    cerchi ed altre figure geometriche,
    senza i quali mezi è impossibile a intenderne umanamente parola;
    senza questi è un aggirarsi vanamente per un oscuro laberinto.»

     - Galileo Galilei, "Il Saggiatore"(1623)


    物理(自然哲学)は、この壮大な本、即ち、我々の目の前に絶えず開かれている宇宙に書かれている。
    しかし、その本は、その言葉を理解し、そこに書かれている文字を解釈出来ない限り、理解できない。
    その本は数学の言葉で書かれており、その文字は三角形、円、その他の幾何学的図形である。
    それら無しでは、一つの単語さえ人間には理解できないようになっている。
    それら無しでは、人は闇の迷宮をむなしく彷徨うばかりである。


  2. 「詳証術(数学)は萬学の基礎なり」

      - 佐久間象山
        (小松彦三郎「なぜ数学は教育の中心にあるか」
         東京理科大学『理学専攻科雑誌』43(2001), 176-203より)

    窮理学への関心と関連して、蟄居後、それほど経過していない安政2年8月の書簡では、
    「此閑時を空しく致し申まじくと存候て、ウヰスキュンデ(wiskunde:数学)に取りかかり申候。
    砲学、軍術いづれも此詳証術に根基候はでは叶はぬ事と被存候」(安政2年8月)と、
    この「詳証術」に関わる書物についても読み始めたという。

      - 東徹『佐久間象山と科学技術』思文閣出版(2002)より


  3. 「本校ハ政治経済学科法律学科及ビ物理学科ヲ以テ目的ト為シ傍ラ英語学科ヲ設置ス」

      - 大隈英麿「私塾設置願」(1882)より


  4. 「明治14年の政変で政府を追われた大隈は、一方においては立憲改進党を設立して
     立憲政治家としての新しい地歩を確立することを目指したが、
     他方においては東京専門学校を創立し
     自分の志を若者と分かち合い、継承させていこうとした。
     その志とは、人間には力があり、勇気があるから、働いて働いて、働き続ければ、
     社会に対する貢献ができるようになるというものであった。
     (中略) 学校の創設は、最初は養嗣子英麿のための理科の学校のはずであったが、
     夢は政治と法科を置くことに膨らんで東京専門学校となっていった。」

     - 片岡寛光『国民的リーダー大隈重信』冨山房インターナショナル(2009)より


  5. 「数学とは神の論理なり」

      - 小室直樹『数学嫌いな人のための数学』東洋経済新報社(2001)より


  6. 「太初(はじめ)に論理(ロゴス)ありき
     論理(ロゴス)は神なりき
     論理(ロゴス)よりすべては出でぬ」

     - 小室直樹『論理の方法』東洋経済新報社(2003)より


  7. Am Anfang war die Mechanik.
    - Max von Laue, "Die Geschichte der Physik" (1950)
    太初(はじめ)に力学ありき

    Deutsches Museumの壁
    ミュンヘン・ドイツ博物館の壁(撮影:赤木剛朗 東北大学教授)
    Deutsches Museum von Meisterweken der Naturwissenschaft und Technik,München



  8. « L'essentiel est invisible pour les yeux.»

     - Antoine de Saint-Exupéry, "Le Petit Prince"(1943)

    (大意)本質的なものは目に見えない。


  9. « Regardez les singularités : il n'y a que ça qui compte. »

     - Gaston Julia
    (L. Gårding, T. Kotake et J. Leray
    "Uniformisation et développement asymptotique de la solution du problème de Cauchy linéaire,
    à données holomorphes; analogie avec la théorie des ondes asymptotiques et approchées
    (Problème de Cauchy, I bis et VI). Bulletin de la S. M. F., tome 92(1964), 263-361."より)

    (大意)特異点を見てごらん。それだけが重要だ。


    (参考)こんな言い方もあります。

    "Mama always told me not to look into the sights of the sun. Oh but mama, that's where the fun is."
     - Bruce Springsteen, "Blinded by the light" (1973)


  10. 大学に入学して暫くすると、私は高田保馬先生の家にたびたび遊びに行くようになった。 (中略)
    私は経済学になじめず、小説家になることはすでに断念していたにしても、
    社会学に転向することは時々考えた。先生はそのような計画に強く反対した。
    「私の経験から申しまして社会学は何歳になっても出来ます。けれども経済学、
    とくに数学的思考法によりますものは、若い時でないと吸収出来ませぬ。」(中略)
    先生は「社会学や勢力論は年が寄っても出来ます。私にだまされたと思って、
    そんなものは後まわしにしなさい」 と言ったが、
    果して「社会学や勢力論」 は老人でも始めることの出来る二流の学問であろうか。
    私はいまではそうは思わない。しかし私が先生に「だまされた」 と言えば、
    「いやいや。それはあなたの頭がお悪いからで。私の話はすべて『他の事情にして一様ならば』
    という条件つきであることをお忘れになりましたか。私には社会学はやさしうございました。」
    と先生が言うような気もする。

     - 森嶋通夫「誠実の証しとしての学問」 『高田保馬博士の生涯と学説』創文社(1981)より


  11. When the problem is too difficult, try to generalize the problem.
     - Tosio Kato (加藤敏夫)
    When the problem is too difficult, try to create a simplified problem.
     - Hiroshi Fujita (藤田宏)

     - 藤田宏「これからの応用解析の使命とロマン」
     中央大学理工学部数学会談話会(平成23年12月22日)より


  12. イデア論を考えたプラトンがその根拠を数学に求めたことは明白である。
    彼のアカデミアの入り口には、「幾何学を学ばざる者は入門を許されず」と書かれていたといわれる。
    数学にかかわるかぎり、イデアを否定するのは容易ではない。
    またイデアを否定したとしても、「関係」が個々の項と無関係に自立的に存在するという事実を
    否定することはできない。
    近代科学に貢献したのは、デモクリトスやエピクロスの原子論だけではなく、
    「自然という書物は数学で書かれている」(ガリレイ)というような考え方であるが、
    それはピタゴラスに由来するのである。また、コペルニクスの地動説も、ピタゴラスに由来する。
     なぜ数学によって世界の根源を知りうるのかは謎である。しかし、そのことを承認するほかない。

     - 柄谷行人 『哲学の起源』岩波書店(2012)より


  13. 僕の言う恐ろしさとは、たとえば数学的認識とその記述方法を突きつめていったときに、
    それが自然現象あるいは自然の素子みたいなものをひとりでに表現できてしまっていることがある、
    これはたいへん恐ろしいことなのではないか、ということなのです。
    つまり数学的行為とは、ある公理となる条件を決めておいて、
    それの展開する系譜を作っていくことだと思うのですが、
    それがどうして自然の物質・自然の素子の挙動を表現出来るのか。
    それは偶然なのか、それとも本質的に可能だとすれば数学的思考というのは
    恐ろしいものだと言えるのではないか、そういうことなのですが。

     - 吉本隆明 『「反原発」異論』論創社(2015)より


  14. Das klassische Beispiel für die geschichtliche Entwicklung einer
    Wissenschaft, zugleich aber auch für die ontologische Genesis, ist
    die Entstehung der mathematischen Physik. Das Entscheidende
    für ihre Ausbildung liegt weder in der höheren Schätzung der
    Beobachtung der »Tatsachen«, noch in der »Anwendung« von
    Mathematik in der Bestimmung der Naturvorgänge – sondern im
    mathematischen Entwurf der Natur selbst. Dieser Entwurf
    entdeckt vorgängig ein ständig Vorhandenes (Materie) und öffnet
    den Horizont für den leitenden Hinblick auf seine quantitativ
    bestimmbaren konstitutiven Momente (Bewegung, Kraft, Ort und Zeit).
    Erst »im Licht« einer dergestalt entworfenen Natur kann
    so etwas wie eine »Tatsache« gefunden und für einen
    aus dem Entwurf regulativ umgrenzten Versuch angesetzt werden.
    Die »Begründung« der »Tatsachenwissenschaft« wurde nur
    dadurch möglich, daß die Forscher verstanden: es gibt grundsätzlich
    keine »bloßen Tatsachen«. Am mathematischen Entwurf der
    Natur ist wiederum nicht primär das Mathematische als solches
    entscheidend, sondern daß er ein Apriori erschließt. Und so
    besteht denn auch das Vorbildliche der mathematischen
    Naturwissenschaft nicht in ihrer spezifischen Exaktheit und
    Verbindlichkeit für »Jedermann«, sondern darin, daß in ihr das
    thematische Seiende so entdeckt ist, wie Seiendes einzig entdeckt werden
    kann: im vorgängigen Entwurf seiner Seinsverfassung. Mit der
    grundbegrifflichen Ausarbeitung des führenden Seinsverständnisses
    determinieren sich die Leitfäden der Methoden, die Struktur
    der Begrifflichkeit, die zugehörige Möglichkeit von Wahrheit und
    Gewißheit, die Begründungsund Beweisart, der Modus der Verbindlichkeit
    und die Art der Mitteilung. Das Ganze dieser Momente konstituiert
    den vollen existenzialen Begriff der Wissenschaft.

    ひとつの科学の歴史的な発展を辿る上で古典的な例とされるのが数学的な物理学の成立であり、
    この例は同時にまた、科学の存在論的な生成過程を考えるのにも示唆に富む。
    この物理学が形成される上で決定的な点は、「事実」の観察がそれ以前に比べて重視されたり、
    自然のもろもろの過程を規定するのに数学が「応用」されたりするようになったといったことではなく、
    自然そのものが数学的に投射される ということである。この投射によって、絶えず一貫して手近に
    在るもの(物質)が発見され、これを構成する量的に規定可能なもろもろの契機(運動、力、位置、
    時間)に着目した先導的な観点のための地平が開かれることになる。このようにして投射される自然の
    「光の中で」初めて「事実」といったものが見出され、さらには投射から統制的に定義される実験の
    俎上に載せられうるのである。「事実科学」の「創設」は、研究者たちが「単なる事実」などそもそも原理的に
    存在しないのを理解したことによってのみ可能となったのだった。この自然の数学的投射についても、
    そこで肝腎な点は、数学性それ自体にあるのではなく、この投射がひとつの先行的な枠組み、
    先験的原理を開示するという点にある。だから、数学的な自然科学が模範的な位置を占めるのも、
    ここに特有の精確さや「万人」に対する拘束性のゆえではない。
    存在するものはそもそも、あらかじめ投射されているそれの存在体制の中でしか発見されないが、
    この数学的な自然科学では、主題となる存在するものがまさにそういったかたちで発見されているゆえに
    模範となるのである。主導的な存在了解が基本的な概念として練り上げられていく中で、
    そこでの方法の指針や概念構制の構造、分野に適した真理性や確実性の可能性、
    立論や証明の進め方、拘束性の様態や知識の共有の仕方などが定まってくる。
    これらの契機の全体が、実存論的な科学概念の総体を構成するのである。


     - Martin Heidegger, "Sein und Zeit" (1927)
     マルティン・ハイデガー『存在と時間』(高田珠樹訳)より


  15.  微分方程式は賢い。

     アインシュタイン方程式はアインシュタインよりも賢い!
     シュレディンガー方程式はシュレディンガーよりも賢い!
     ディラック方程式はディラックよりも賢い!

     アインシュタインは宇宙は永遠に不変不滅だと信じていたが、
    アインシュタイン方程式は宇宙が定常ではありえないことを教えた。
    シュレディンガーは、物理学の基本量は何らかの物理的実在を表すものと思い込んでいたが、
    シュレディンガー方程式の解である波動関数は確率解釈でしか観測と関係づけられないものだった。
    ディラックは電子のディラック方程式から存在が導かれる正電荷の粒子を
    無理矢理に陽子と同定しようとしたが、じつは陽電子が実在したのだった。
    20世紀の初頭に現れた物理学の基礎理論の3大革命
    「特殊および一般相対論」「量子力学」「相対論的量子論」のそれぞれを代表するものというべき
    アインシュタイン方程式、シュレディンガー方程式、ディラック方程式は、いずれも微分方程式である。
    アインシュタイン方程式は重力の場が時空構造を支配する「時空計量」であって、
    連立非線形偏微分方程式に従うことを示したものである。
    シュレディンガー方程式は、一切の「日常常識」が通用しないミクロの世界においても、
    偏微分方程式によって物理が正確に記述されることを明らかにした。
    ディラック方程式は、特殊相対論と量子論の融合が必然的に反粒子の存在を導くという驚くべき結論を生んだ。

     - 中西 襄 『微分方程式 - 物理的発想の解析学』丸善出版(2016)より


  16. 数学のイデア的世界は、現実界を離れて自在に飛翔する考察によって構築される。
    それによって脱構築された物理の空間概念は、必ずしも人間の知覚に結び付けられるとは限らない。
    実際、理論に先導されて発見された<空間>(相対性理論の非ユークリッド空間や量子論の非可換な空間など)は、
    人の直感では理解しにくい。イデアは<物>を発見することさえある。
    例えば、理論が対称性を保つためになくてはならないものとして新しい<物>=粒子が発見される。
    このように、数学的な可能性を自然の中に発見するという逆転した事態が起きているのである。
    カントが直観形式と呼んだものは、もはや一部の専門家だけに共有されるものになったと言わざるを得ない。

     - 「吉田善章による第八の異議:物と時空-そして<私>」
     松永澄夫 監修『哲学すること-松永澄夫への異議と答弁』中央公論新社(2017)より


  17. 私はここ*に数理物理学として重要な問題があると考え、その研究に深入りするようになった。
    もともとこの種の問題は広い意味の存在定理であって、一般の物理学者には人気がない。
    俗説によれば方程式に解がある事は自明であり証明を要しない、何となれば現象は実際におこっているから!
    しかしこれは理論を放棄した自殺的発言であろう。

     - 加藤敏夫『量子力学の関数解析』
     江沢洋・恒藤敏彦 編『量子力学の展望 下』岩波書店(1978)より
      (* フォン・ノイマンの量子力学基礎理論に於ける自己共軛性を巡る諸問題)

  18. 量子力学に関する多くの著書が數学的取扱に於て十分厳密でないことは何人も承認する所である。
    勿論數学的細部に拘泥して物理的本質を見失ふことは、物理学としての量子力学にとっては致命的であるから、
    この点を深く難ずることは當を得てゐないけれども、苟も量子力学が數学を武器として使用する以上、
    數学の法則に従はなければならぬことも亦當然である。
    (中略)
    前述した通り物理学としての量子力学は、數学的厳密といふことに拘泥してゐては前進することが出来ないから、
    細かい數学的困難を無視して進むことは已むを得ないばかりでなく、またその方が望ましいことであらう。
    併し得られた結果を体系づけるに当っては數学的厳密さもある程度までは考察されねばならず、使用する數学を
    出来る限り厳密な基礎の上におくことは理論物理学者の一つの義務である。のみならず忙しい前進の中に為された
    餘りにも乱暴な數学の使用に対しては多少の反省を促すことも必要であらうと思ふ。

     - 加藤敏夫 稿 黒田成俊 編注『量子力学の数学理論 摂動論と原子等のハミルトニアン』近代科学社(2017)より